2009年08月01日

コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(12)

090731_0523~02.jpg【 無意識のうちの悪魔との契約 】  ぼくは、当時、カトリック信者ではなかったから、オナニーが大罪だとは知らなかった。セックスするのとはちがって、ひとりですることだから、誰も傷つけないから、うしろめたい罪を犯している、って意識はあったけど、中学2年生のとき、とうとう性的な誘惑に負けた。  夏ころだったと思うけど、「空想の世界なら誰も傷つけないから、いろんな女の子のことを想像しながらオナニーすることは、しょうがないけどOKだ」、って承諾してしまったんだ。初恋の人に対する「裏切り行為だ!」という罪責感をひきずりながらね。もう自分の意志ではコントロールできなくなってしまったんだ。そのあたりから、性的な妄想がはじまった。  こう書くと、「わかってて、やってしまった」ようなニュアンスで受け取られそうだけど、まったくちがうんだ。この行為は、自分のはっきりとした意識の中でおこなわれたものではないんだ。47歳のいまになって、よくよく当時を思い出して分析してみると、そういうことだったのか、という、無意識のうちにおこなわれた行為なんだ。  さきの話しで、「お馬さんと御者」のたとえばなしをしたね。いまもそうだけど、この当時のコルベ・マリーという「御者」はね、異常にストイックで、「純潔であるべし! なんじ、姦淫するなかれ! 女の子と接するのはよくないことだ!」と叫びまくり、お馬さんをビシバシむち打っていたんだ。信じられないくらい徹底的に自己統制していたんだ。だから、はっきりした意識のレベルでは、コルベ・マリー自身の自画像は、「徹底的に純潔を守っている修行僧」「少なくとも、そうありたいと真剣に努力している」、つまり「人一倍、立派な人」なんだね。  しかし、コルベ・マリーの「お馬さん」、つまり自然な肉体的・精神的・情緒的な部分は、生まれてこのかた、めちゃくちゃにムチ打たれ、やせ細って、瀕死の状態になってたんだ。「しんどいよう…、やすみたいよう…」と、息も絶え絶えに、かぼそい声でうめくコルベ・マリーの「お馬さん」は、そこで、無意識のレベルで、悪魔の誘導にしたがい、「オナニー」という依存症的な行為に走ってしまうんだ。  「人間」という動物の、動物的に自然な、肉体・精神・情緒の欲求。おなかがすいたとき、「食べたい」、「食べる」、「まんぷく(はぁと!)」っていうのは、「悪いこと」だと思う? あたりまえのことだよね!  どういう経緯でこうなったのかは、まったくわからないけれど、コルベ・マリーはものごころついたときから、いや、たぶんそれ以前から、ひどい「愛情飢餓」なんだ。動物的に自然なレベルのことが、まったく満たされていないんだ。  と、同時に、ジャン・マリー神父から指摘されたんだけど、コルベ・マリーは遺伝的に「非常に強い人格」の持ち主なんだ。「誰が何と言おうと、こうと決めたら徹底的に最後までつらぬきとおす」んだね。  ぼくの中には、「異常なストイックさ」と、その反動からくる「依存症的な行動」が共存しているんだ。たとえて言うと、自動車で、アクセルとブレーキを同時に力いっぱい踏み込んでいるような状態なんだね。自動車は、ぶっこわれてしまう。  中学2年生のときの話しに戻るとね、無意識のレベルでの出来事なんだけど、自分でもわからない「愛情飢餓」という部分に、悪魔が強力に「空想の世界なら誰も傷つけないから、いろんな女の子のことを想像しながらオナニーしてもいいじゃないか!」とはたらきかけたんだね。もちろん、はっきりした意識のレベルでは、「御者」が異常なストイックさで「絶対にダメ!」って、叫びつづけているんだけど、無意識のレベルの「お馬さん」は、それに飛びついちゃったんだね。  ここで、「無意識のうちの悪魔との契約」が成立しちゃった可能性があるんだ。催眠商法とか、いろんな押し売りの手口があるよね。知らないうちにハンコついちゃって、ひどいめにあわされるやつ。あれと同じようなものだね。  こうしてみると、ぼくには他にも思い当たる「無意識のうちの悪魔との契約」がいくつかあるんだ。これは、また、おいおい書いていくとして……。  神様が、こんなぼくに、ジャン・マリー神父という経験ゆたかで、信じられないくらい寛大な霊的指導者を与えてくれて、とっても感謝なことだよ。ジャン・マリー神父の指導がなかったら、ぼくは、こんなにゆがんでしまっている本当の姿を、まったく認識することができずに、地獄へ向かってまっしぐらに突き進んでいたと思うよ。  そうだね、ぼくはみんなより恵まれた環境にいると思うけど、これは、ぼくがみんなよりはるかに悪い霊魂だから、手取り足取りのお世話が必要だからなんだろうね。神ちゃま、ありがとう! マリアママ、ありがとう!  だんだんわかってもらえると思うけど、みんなは、ぼくよりずっとましなんだよ。ぼくは、こんなに悪い霊魂なんだけど、神ちゃまは、ぼくをとっても愛して、神ちゃまのお仕事によろこんで用いてくださっているんだ。  いま、神ちゃまが、みんなにお望みになっていることは、とっても簡単なんだよ。ジャン・マリー神父のもとで、「リトル・ペブルさんを堂々と支持すること!」、「幼な子のように、神ちゃまとマリアママとおはなしすること!」、たったこれだけなんだ。  みんなは、ぼくよりはるかにましなんだから、ぼくなんかより神ちゃまのために、マリアママのために、もっとよくはたらけると思うんだけどなぁ〜! http://charbeljapan.cocolog-nifty.com/charbeljapan/cat20899643
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2009年07月31日

コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(11)

090729_1208~0001.jpg【 異常なストイックさと、依存症的行動 】  ぼくは、ものごころついたときから、女の子と話しができない。小さいころから、女の子が近くにくると、真っ赤になって、頭が真っ白になって、何もできなくなってしまう。「赤毛のアン」という物語に、マシューさんというおじいさんが出てくるんだけど、まさにぼくの師匠みたいな人だ。  もうひとつ、いつのころからかわからないけど、修行僧のようにストイックに独身をつらぬこうと考えるようになった。と、同時に「結婚」することにも強烈にあこがれた。なんだかわからないけど、明治時代の日本にあったような、貞操という価値観が、小さいころからあった。  中学1年生のときに初恋をした。同じクラスの学級委員長をしていて、成績もトップクラスの女の子だったけれど、ひとめぼれだった。初恋だから、純粋にその子だけにすべてをささげようと思った。  その子とは、高校3年までいっしょだった。向こうもぼくのこと好きになってくれていたみたいだった。しかし、女の子がそばに来ただけで、かちんこちん、まっかっか、頭の中まっしろ、になってしまうのに、ましてや、その子の前ではパニック状態になって、気を失いそうになってしまう。  6年間、なんどもチャンスはあったはずなのに、ぼくが覚えている唯一の会話は、その子「阿部」、ぼく「あぅ〜」、だけだ。明治時代だったら、親とかまわりが察してくれて、18歳でめでたく結婚、ってことになってただろうね。  こんなふうに、頭の中では異常なほどのストイックさで「純潔」をたもとうとしていたけど、肉体はコントロールできない。中学一年で、第二次性徴期になると、射精がはじまった。前に書いたけど、ぼくはものごころついたときから、寝るとき、ふとんのなかでうつ伏せになっておちんちんをこするという、オナニー的な自慰行為をしていたから、射精がはじまって、パンツとズボンがぬれてしまうようになった。  また、「純潔」であろうとする意志とはうらはらに、中学一年のころから、女性に対する性的な誘惑がはじまった。いかんいかんと思いながらも、性的なことを想像しながらおちんちんをこするという行為だから、完全にオナニーだわね。朝、パンツとズボンをぬらしている姿を見て、親は「やめなさい」というので、「やっぱり、いけないことなんだ」とは思うんだけど、具体的にどう対処する?ってことは、ぼくには自覚がないし、親は「やめろ」の一点張りだから、相談のしようもない。  ぼくは、このオナニーは、初恋の女の子に対する「裏切り行為」だと思っていたもんだから、時間とともに汚れていく自分が、どうしようもなくいやになった。あとになって、やっとこさ気がついたんだけど、中学のとき、ぼくはけっこうもてたんだね。いろんな女の子が、ぼくにアプローチしてきた。で、それは、性的な誘惑に直結したから、ぼくは気が狂いそうになるほど、その子たちを忌み嫌った。  いまになって、ジャン・マリー神父に、このことを打ち明けてみると、「コルベ・マリーは異常だよ」と言われた。ものごころついたとき、すでに異常だというんだ。  ジャン・マリー神父がするおもしろいたとえでね、お馬さんと背中にのっている御者(ぎょしゃ)の関係にたとえてみるんだ。お馬さんは、「人間」という動物的な部分のことで、自然な肉体的、精神的、情緒的な反応をするんだね。御者は、「飲みたい」「食べたい」「休みたい」って要求するお馬さんに、「こうしなさい」って命令する存在。  コルベ・マリーの場合、この御者が、めちゃくちゃな命令ばかりする、とんでもないやつだ、って言うんだ。  たとえば、ものごころついたとき、「女の子と接するのはよくないことだ!」とコルベ・マリーの御者は、お馬さんにきびしく命令しているんだね。こんなこと、ふつうの幼児にはおこらないんだ。  まえに、よその家にいくと、食べることも、飲むことも、トイレにいくこともできなくなってしまう、って話したね。これも、お馬さんが「食べたいよ」「飲みたいよ」「トイレにいきたいよ」って自然に要求するんだけど、コルベ・マリーの御者は、「親に叱られるから」「この家の人に迷惑がかかるから」「はしたないから」などと、いろいろ、もっともらしい理由をつけて、「がまんしろ!」って、めちゃくちゃな命令をして、お馬さんをムチ打って、無理やり従わせようとしてきたんだね。  だから、ムチ打たれて、傷だらけで、やせ細ったお馬さんは、ふらふらと、なにがしかの依存症的な行動に走ろうとする。水をがぶ飲みするとか、オナニー的な行為をするとかは、お馬さんからの「SOS」信号だったんだね。  いま、毎日夜8時から、ジャン・マリー神父に打ち明け話をしているんだ。告解ではないけど、告解に準ずるくらい個人的な闇の部分を、できるだけ洗いざらい話すようにしているんだ。そうすると、いままで自分ひとりでは気がつかなかった、とんでもない傲慢な自画像が浮かび上がってくる。  あまりに汚い、醜いことを打ち明けるから、普通の人には毒性が強すぎて、聞くに耐えないだろうね。でも、ジャン・マリー神父は、神様の代理者だし、他の神父がもっていないほど、とんでもなく寛容で、経験豊かだから、こんなぼくでも安心して打ち明けることができるんだ。  ぼくは、すっごく恵まれているよ。ご聖体のイエズスと、こんなにやさしく、強いジャン・マリー神父といっしょにいることができるなんて!  神様、マリアママ、天使くん、聖人くんたちが、できの悪い子ほど愛してくれるっていうのは、ほんとうだよ! http://charbeljapan.cocolog-nifty.com/charbeljapan/cat20899643
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2009年07月30日

コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(10)

090728_0953~01.jpg【 問題行動の数々…(5)】  前回、ねこのことを、おもしろおかしく書いたけど、実はこれは、ぼくの中に内在する異常なストレスからくる、回避行動のひとつなんだ。 「ねこ」は表面にあらわれる、一見して無害なものに思われるけど、本質的には、きわめて深刻な問題を内面にかかえているんだ。  ジャン・マリー神父はよく、「日本人には、カトリックの信仰うんぬんの前に、情緒の傷のケアが必要だ」と言うんだね。欧米のキリスト教文化圏、パキスタンやアフリカなどの貧しいけど純朴な国の人々とはちがって、日本は「しつけの文化」で、世界一、人間らしさ、おおらかさのない国なんだね。  人間には、神様がひとりひとりに創造してくださった霊魂という永久不滅の存在がある。それぞれの霊魂には、他の霊魂たちとはまったく違う個性がある。また、人間は動物の一種でもあるから、成長過程で、動物的に自然な肉体的・精神的欲求というものがある。日本の親たちは、それをまったく無視して、「この子のため」という大義名分をふりまわして、「盆栽」みたいに無理やりねじまげ、型枠にはめ、萎縮した、いびつな人間にしてしまうんだ。  ぼくの中にある本質的な大問題は、「異常なストイックさ」と、その反動からくる、何かにのめりこんで破滅にむかってまっしぐらに進んでしまう「依存症」的な、まったく相反する二つのものが存在していることだ。  47年間の人生で、ぼくは「異常なストイックさ」という外見だけを、みんなに見せてきた。多くの人々は、ぼくの学歴・業績を見て、何かえらい人、修道者のような人、近寄りがたい人etc だと思うだろう。もし、ぼくたちが最初の神様のシナリオ通り、聖シャーベル修道会の共同体のまま進んで、ぼくが第3部門の修道信徒誓願をたてていたら、外見上ぼくは、その役割を演じきっただろうと思う。  でも、「ぼく個人の救い」ということを考えると、先にも書いたように、イスカリオテのユダのように、行動の第一の動機が「自尊心」「プライド」「自分をほめたたえること」だから、自分が罪深い人間であることを認めようとはせずに、「あわれみの神様」がやさしくさしのべてくれるその手をはらいのけて、自暴自棄になって、地獄へ自分で飛び込んでしまっていたと思う。  傲慢(ごうまん)で、自分が「清く、正しく、美しい(笑)」と思い上がって、同宿会創立後、約2年たっても人ごとのように考えていた、このもっともあわれで、もっともみじめなぼくに、やさしい神様は、「リトル・ペブル同宿会」という「ぼくの居場所」をつくってくれた。  一連のロザリオの祈りの最後に、「ああイエズスよ、……すべての霊魂、ことに主の御(おん)あわれみを最も必要とする霊魂を、天国へ導き給え。」 というのがあるけど、これ人ごとじゃなくて、ぼく自身のことなんだね。  みんなは、どんなに罪深くって、その罪から抜けられないとしても、イスカリオテのユダのようなぼくよりは、はるかにましな霊魂なんだよ。ジャン・マリー神父は、こんなぼくを12年間も、いやな顔ひとつせずに、むしろ、よろこんでお世話してくれたんだ。  だから、みんな、こわがらないで、ジャン・マリー神父のもとへ、やさしいマリアママのもとへおいで。彼は、すごくやさしい神父だよ。とくに、間違っている人、罪人にたいして、信じられないくらいあわれみぶかい神父だよ。こわがらないで、心をひらいて、悪さをもろだしにしてね。みんな受け入れてくれるよ。 http://charbeljapan.cocolog-nifty.com/charbeljapan/cat20899643
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