2009年04月15日

コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(6)

090403_1332~02.jpg【 問題行動の数々…(1)】  約20年前、愛知県で会社勤めをしていたんだけど、会社の夏休みのとき、「秋田の聖母」のご出現地へ行こうと思ったんだ。車でね、「秋田の湯沢」へね。はじめての車での長距離旅行だ。  ぼくは、ものごころついたときから、すでに対人恐怖症なんだ。だから、人との接触は絶対避けようとするんだね。名古屋から秋田へは、たしか長野・新潟ルートを使ったから片道約900キロ。  人と接触したくないから、妙高高原で初めての車中泊。坂道で、からだがななめになって、一番は、山の中だから、こわくて、ほとんど寝れなかった。夜明けとともに、早々に出発。完全に寝不足だ。  人と接触したくないから、ガソリンは、ガス欠寸前になってから、しぶしぶスタンドで給油。店員さんが「いらっしゃいませ〜!」なんて、でっかい声でよってくるから、内心、大パニック状態さ! ほんと、できることなら、アクセル全開で緊急脱出したいんだけど、おろおろしながら、店員さんの誘導にしたがう。  「おーっらい、おーっらい!」「いらっしゃいませっ! □□へようこそっ!」 うっ、うぁ〜! たのむから、あっちいってくれ!  「れ、れ、れ、レギュラーまんたん、っげっ、げんきんで……(大汗)」って、やっとこさ言うと、「まどガラスはどうしますかっ?」 「あっ、あぅう〜、おっ、おねがいします」って、ほんとはいやなんだけど……。なんでいやかって、目のまえでガラスふかれると、視線をどこへやっていいもんやら、死にそうに緊張するんだ。  ずっとがまんしてるから、トイレに行きたいんだけど、かたまっちまって、いけない(泣)。あぁっ、はやくおわってくれ〜。もう、お金用意して、必死に我慢する。  やっと、給油終わって、あと少しで解放されると思ってたら、「お客さん、タンクの水抜きの時期がきてるんですけどっ(営業スマイル!)」 うっ、うるせぇっ! このやろう! って思いながらも、「あっ、いいですぅ〜」と、ひきつった笑顔でかろうじて答える。  やっと給油が終わって、おつりもらって、脱出の瞬間がまたいやなんだ。はやく脱出したいんだけど、おつりを財布に入れるのにまごまごする。その間、店員さんは営業スマイルで、気をつけして、こっち見て立っている。大パニック状態の頂点だ。さっさと、店へ引っ込んでくれ!って思うけど、実際そうされると、見放されたみたいでみじめだし……、とにかくしょうがないから、助手席におつり放り出して、ひきつった笑顔で店員さんにあいさつして、ガソリンスタンドを一秒でもはやく後にしようとする。  はやく脱出しようとして、なんど他の車にぶつかりそうになったり、あさっての方向に出て行ったりしたことか……。バックミラーにうつる、店員さんの唖然とした顔。ガソリンスタンドが見えなくなってから、路肩に車を止めて、助手席に散乱したおつりを財布にいれる。  そして今度は、ひたすら立ちションできる、山の中の茂みをさがす。山の中はしっているときはいいんだけど、町の中はひたすら我慢だね。今どきは「道の駅」って便利なものがあるけど、昔はドライブイン、おみやげ屋さんしかないから、人の目が気になって、どうしても入れない。  難行苦行のあげく、ぼくは二日目の午後3時ごろ、秋田県湯沢市についた。秋田市湯沢台ではない。秋田県湯沢市だ。「秋田の聖母」をさがして、いったりきたりした。  それらしきものはない。ここは、秋田美人で有名なところだ。みんな、女のひとは美人で、男のひとはハンサムだ。ぼくは、生まれついての対人恐怖症だ。真っ赤になって、よけいたずねることなんかできない。  いま住んでいる秋田県湯沢市の、古い酒蔵の建物は、いまでもよく覚えているよ。3回くらいその近辺をさまよった。やっぱり、「秋田の聖母」はにゃい!  夕暮れの雄物川の川岸で、とほうにくれた。たぶん、うろおぼえだけど、山形県新庄市と秋田県横手市のあいだを、「秋田の聖母」をさがして、3往復くらいした。  人と接触したくないから、旅館に泊まろうなんて考えはうかばない。たぶん、夜11時ころ、湯沢市の三関のあたりの、雄物川の西側の田んぼのわきに車をとめて、仮眠することにした。でも2時間もしないうちに、こころぼそくなって、涙目になって(うるうる)、秋田市の方へむかった。深夜の秋田市を通りすぎて、「おれはいったい何やってんだろう」って思いながら、Uターンした。  どの道を通ったか、もう覚えていないけど、三日目の昼ごろに新潟市に到達した。もう3日間ほとんど寝てないから、どっかの住宅街の道端に車をとめて、ちょっとだけ仮眠。またひたすら走りつづける。そして、四日目の早朝、愛知県東海市の会社の寮にたどりついて、夏休みの残り3日間(くらい?)、ひたすら寝ていた。  結局ぼくは、いまにいたるまで、秋田市湯沢台には行ったことがない。あっはっはっ(笑)  でも、いま住んでいる、秋田県湯沢市の「寺沢」が本命になったから、まあいいか。っていうか、これって、神ちゃまのユーモアだよね。ぼくが決めたんじゃありません。  ぼくって、すごく変なやつでしょ? でも、神ちゃまは、こんなぼくでも、神ちゃまのお仕事に使ってくれるんだ。神ちゃまは、ほんとうにやさしいんだね。 http://charbeljapan.cocolog-nifty.com/charbeljapan
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2009年04月10日

コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(5)

090403_1407~01.jpg【 イスカリオテのユダ (2)】  さっき「フー・イズ・ボス・イシュー(だれがボスなのか?)」というテーマをあげたけど、ルシフェルも、イスカリオテのユダも、「自分自身だけがボス」なんだね。ぼくも同様だ。遺伝的な気質で、「人間に対する絶対的な不信感」という深い「情緒の傷」を負っていて、自分以外の誰も「目上」「長上」、つまり「ボス」としては認めない。絶対に認めない。自分が「王様」になってしまうんだね。  地獄の住人は、みんな「自分自身だけがボス」なんだ。ただ力関係があるから、強いものに強制されて、しぶしぶ従っている。でも他の誰も愛してなんかいない。だから地獄には、他のすべてに対する憎しみ、怒り、ねたみしか存在していない。お互いを傷つけあい、想像を絶する拷問が、いっときの休みもなく、永遠に続く。  この正反対が、愛そのものである神様、天国・煉獄・古聖所(リンボウ)の住人たちなんだ。天国ではかぎりなく、永遠に、「神と隣人を愛する」。神様の愛は無限だから、お互いを愛しあう「愛」は、無限に増大していく。天国は、想像を絶するしあわせなところなんだ。  イエズスは、「天の国でいちばんえらいものになりたければ、しもべのしもべになりなさい」と教えているんだ。つまり、「フー・イズ・ボス(だれがボスなのか?)」という問いかけに対して、「自分自身がボス」なんてことはありえないんだね。  「殺人」「強姦」「盗み」は、だれの目にもはっきりとわかる「悪」だよね。目に見えて、隣人を不幸におとしいれるから。でも、これらの諸悪の根源は、「傲慢(ごうまん)」なんだ。「傲慢」は隠すことができる。内的なものだから、「礼儀作法」「美しい服」「地位」「名誉」で表面をかざり、「善い人」を演じきることができる。  最悪のケースは、「従順」「清貧」「貞潔」の誓願を守り、自他ともにみとめる、「清く、正しく、美しい」、「聖人のような人」を演じきってしまう場合だ。これが、ぼくの本当の姿なんだ(同宿だから誓願はたててないし、聖人には見えないけどね)。善意にみちてはいるけど、「自分が悪い」なんて、これっぽっちも思ってないから、他人と神様からの忠告・助言なんて、まったく耳にはいらない。  「自分が善人だ」と信じきっている人間ほど、隣人にとってはた迷惑な存在はないだろう。ジャン・マリー神父と共同生活をはじめて約12年、ジャン・マリーは、「コルベ・マリーには、いつも泣かされています、うぅー、うぅー(泣)」って言いつづけてるんだけど、ぼくは、つい最近まで、「冗談だろ!(笑)」って、本当に笑って聞き流していたんだ。(T_T)/~~~  みんなもいっているように、リトル・ペブル同宿会は「こんなぼくたち」のために、マリアママがプレゼントしてくれた「ぼくたちの居場所」だ。でも、創立後の約2年間、ぼくは人ごとのように思ってた。マリアママから告白録を書くようにリクエストされていて、ブログとか用意したけど、どうしても書けなかった。書くと、無意識のうちに他人を非難し、相対的に自分をもちあげてしまい、「何かへんだ……」と、筆がすすまなかった。  そりゃそうだね。ぼくは、だれよりも「傲慢(ごうまん)」だから、ほんとうに「自分が悪い」なんて、これっぽっちも思ってないんだから、書けるわけないよ。  罪のなかで、最悪の効果をもたらすのが「傲慢」なんだ。善悪を正しく認識するための「霊魂の目」がゆがんでしまって、「自分こそ神様に選ばれたもの」「私は、あれこれの掟を守っているから、清く正しく美しい」「私こそ天国にはいるにふさわしい」と信じきって、他のすべての人々を無意識のうちに軽蔑のまなざしでみてしまう。  善行をいっぱいして、まわりの人々から「すごいわねぇ」「えらいわねぇ」ともちあげられて、内心「鼻たっかだか(はぁと)!」なんだけど、そこに本当の愛はいつのまにか消滅してしまっている。  これが、ぼくの本当の姿なんだ。ぼくは、リトル・ペブル同宿会の同宿の中で、いちばんたちの悪い性質をもった、「傲慢(ごうまん)」のチャンピオンだよ。でもね、イエズスがいちばんイスカリオテのユダを愛し、お世話したように、マリアママは、ぼくにリトル・ペブル同宿会をプレゼントしてくれたんだよ。 http://charbeljapan.cocolog-nifty.com/charbeljapan
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2009年03月17日

コルベ・マリー阿部哲朗の告白録(3)

090312_1239~0003.jpg【 世界は危険に満ちている!? 】  ぼくの情緒における価値観は、「世界は危険に満ちている!」のひとことにつきる。「信仰」以前の「情緒の深い傷」の問題だ。  ローマ・カトリックのメンタリティーは、本来は「超楽観主義」、まったく完全に善い方である神様に、「幼な子」のように完全に信頼しきっているから、「おおらかさ」「希望」「活力」にあふれている。  人間的に見て、不幸な、悪い出来事も、まったく善い神様が、よい目的のために、それが起こることをゆるされていると考え、いつも明るい希望にみちている。  しかし、いつも、「何か悪いことがおきるんじゃないか?」 「どうせ神様は、私のことなんかちっとも考えていてくれやしない!」 「それどころか、罪! 罪! と、こうるさく、いつも罰してやろうと、まちかまえている、先生みたいに偉そうにしているやつ!」etc…という、「悪魔的悲観主義」に支配されている日本人のうち、その中でも最低最悪のチャンピオンみたいなぼくは、土台の部分から違っていて、ローマ・カトリックの「信仰」うんぬんどころではないんだ。  1987年ころのことだから、今から約22年前だね、リトル・ペブルさんに与えられたマリアママのメッセージを知ったのは。それから、クリスチャンになり、メッセージとか教会で言われている信心業に、ひと三倍励んださ! ロザリオ三環、断食、いろんな祈り、善行……!  しかし、精神的にも、肉体的にも、完全にすりきれちまったよ。あげくのはてには、「おれがこんなにがんばってささげているのに、こいつらひとごとみたいにのんびりしやがって! うまくいかないのは、てめえらのせいだ!」って、おもてには出さないけれど、内心にがい思いでいっぱいになって、どうしようもなくなっちゃったよ。  でも、根本的にまちがっているのは自分のほうだったんだね。土台が「悪魔的悲観主義」では、いくら一生懸命に信心業がんばっても、神様にぜんぜん信頼していないから、自分たちの人間的な価値観でやってしまおうとするから、おかしくなってしまうのは当たり前のことなんだ。  「信仰」以前の問題。ぼくの場合は、「人間に対する絶対的な不信感」なんだ。思い出してみると、ものごころついたころから、すでに、人に対して異常なくらい不安と緊張感をいだいていた。大人であれ、子供であれ、人と接するのは非常な苦痛だった。いやでいやでしょうがなかった。  人は、隣人を通して神様を愛するんだ。だから、「私は神様を愛しています。でも、隣人は好きではありません。一人でいるほうがいいです」ってことは、ありえないんだ。  「情緒の傷」だから、頭ではわかっていても、無意識のうちに肉体と精神は逆の反応をしてしまうんだ。ぼくの「情緒の傷」が、どれほど深いか、これからおもしろい実例をいくつか披露してみるよ。 http://charbeljapan.cocolog-nifty.com/charbeljapan/
posted by こるべまりい at 16:07| 秋田 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | コルベ・マリーの告白録 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする