2016年08月29日

獣のフランシスコにけんかを売る公のメッセージ 2016年8月28日

獣のフランシスコにけんかを売る公のメッセージ

2016年8月28日 PM3:10
ペトロにーちゃんのご出現

マリア・アントニア「今日の未明に、ペトロにーちゃんが話してくれたことを書き起こして、打ち出して、プリントアウトされたものを読み返していた時のことで、ジャン・マリーから、ペトロにーちゃんに対して質問をしている部分を読み返していたら、子供のミサごっことか、ホワイトミサとかと同じようなものでしょ?っていうところを読んでいたら、『子供のミサのほうが、よっぽど純粋である』って、ペトロにーちゃんの声で聞こえてきた。」

ペトロにーちゃん「聞く耳のある者は聞くように。ペトロが話をする。これは、昨日の話をしたものについて、まだ話をしていなかった部分を話す。今のミサをする司祭のうわっつらの行いについても、その事を話さなければいけないと思う。ミサ聖祭を行う時、司祭が何を考えているか・・。私たちの先生は、全て知っておられる。これは、脅かすつもりで言っているのではない。自分の心の中でおもった事、という事実があって、それを聞いている方がおられるという事を証明するものである。子供のミサのまねごと、ミサごっこのほうが、よほど純粋である。子供は、何かに、遊びに夢中にになっている時、その事だけを考えている。ミサごっこをしている時の、本当に小さな子供の、司祭へあこがれているおもいを、私はとても気に入っている。聖変化の時のシーンを真似をして、子供がおせんべいを、あるいはビスケットなどを持った時にも、やはり純粋に『これが変わるんだ』というおもいだけで、とてもあこがれている。その時の子供の集中力は、ものすごいものである。誰かに名前を呼ばれる事でもない限り、本当に子供は没頭し続ける。そこが、今の司祭には欠けている部分である。脱魂状態という事までいなかくても、我を忘れて一つの事に集中をするということを、子供に見習ってほしい。単純に、イエズスの事、先生がどのような事を、ミサ聖祭の基礎となされたかということを思えば、そこからは、次第に聖霊の働きによって導いてくださる。我を忘れる事が出来るようになる。パードレ・ピオの事を例にあげて話そう。彼は聖変化の時に、特に集中をしている。そして、意識を天の御父へ向かわせる。それだけをしている。そのあとは、天の方が引っ張ってくださる。外からは何も感じとることが出来ないと思うが、ホスチアに向けられた彼の視線、そして彼の周囲では、大スぺクタクルなものが見せられている。だからこそ、とても長い時間になってしまう。願えば、そのような事が、どんな司祭にも起こり得ることである。単純に気持ちを集中させる事が重要である。本当に我を忘れるという事が、大切である。天の御父との、そして先生との対話を望むなら、自然と導かれていく。そうする気もないのに、ただ、そ振りをしただけでは何も起こらないのは、当然である。神秘的なことを、あざ笑う者がほとんどである。自分の好きな人に対して想いを寄せることと同じ事である。その人のことを考えている時には、時間を忘れてしまうであろう。子供も、遊びの時には、好きなものに対して、我を忘れている、その世界に入っている。子供がミサごっこをしている時の方が、よほど天の御父は、ほほえんでおられる。そこには、理屈というものは、存在していない。そして、豪華な建物も、本来ならば必要がないということも話しておく。私たちの先生、すなわちイエズスがおられるということを、常に意識をし続けることによって、その人の心が祭壇へと変わる。天へ目を向けると、特に司祭が天へ目を向けると、どこにいても、そこではミサをすることが可能である。形式などは、あとから来るものである。極端な話をするが、手の平があれば、そこで司祭はミサが出来る。たとえ手の平が使えない状態になってしまっている司祭であっても、頭の中に祭壇をおもえば、そこでミサをすることが出来る。対話を望むのなら、そこからは引っ張ってくださる。私の言っていることをわかってもらいたいのだが、もう一度、繰り返して言うが、よほど子供のミサごっこの方が、今のほとんどの司祭たちよりも、天は温かいまなざしを注がれているということを言っておく。ミサごっこを終えたあとでも、子供たちはおせんべいを、あるいはビスケット等を使ったものを放置しておくようなことはしない。なくさないように食べてしまう。それが大切におもっているものだからである。そして単純に、おいしいという幸せな気持ちになる。そのことも大切である。私は難しい言葉で、もっともらしい事を言うつもりはない。ただ一言、言いたいのは『恥を知れ』という事である。子供のおもっている事をそのまま話すということ、司祭たちはできるだろうか?ほとんどの場合は、立場上、何もストレートに話せないのが現状である。これから司祭になろうとする志願者たちに言う。どうか、子供のように、何も疑問を持たずに、天の御父との対話にあこがれることを望んでほしい。そうすれば、たりないものは、たりない部分は、補われる。わが息子のように、ミサ気ちがいと言われるところまで目指してほしい。ミサと日常の生活の部分を切り離して、それとこれとは別だと言う者が多いが、本当は、ミサにつけ加えられるものが、日常生活であって、常に、司祭であれば、天の御父に意識を向けているべきである。私はもう一度言う。理屈ということが、いかに必要でないものかということを。先生は、子供の頭をなでている時の、子供達のまなざしが、本当に好きである。私も子供が大好きである。どうか、司祭たちよ。子供達の瞳の純粋さを心に刻んでほしい。いつもボーッとしているという勝手な判断を子供にすることは、良くない。大人の判断とは逆に、ものすごく集中し続けていることがあるからである。ミサ聖祭に向かう時の心構えを、子供のミサごっこの時の純粋な気持ちで行うことを私は望む。これを今日は伝えたかった。聞く気がある者は、聞くように。そして黙想するように・・。私は、単純なことを言っている。司祭の祝福を、ロンジン・マリー、フランソワ・マリー、コルベ・マリー・ジョンにお願いする。」

ジャン・マリー司祭「全能なる天主にまします。父と、子と、聖霊との祝福。ロンジン・マリー、フランソワ・マリー、コルベ・マリー・ジョンのうえにくだり、つねにとどまらんことを。アーメン。」

ジャン・マリー司祭「ペトロにーちゃん、質問だよ。またまたはっきり答えてちょ。1993年のことだけど、ボクの前前任者のリトル・ヨハネの時代のペール・ブレが、司教になるように勧められた時に、フリー・メーソンに入会することが条件だって言われた彼の体験と、それがその時の司教になる条件だって、ボクたち司祭志願者に話してくれたんだ。つまり、その当時、1993年の段階で、すでに全世界で、司教になるには、フリー・メーソンのメンバーでなければなれないっていう状態だったっていう事は、本当?そして、だったらば、今のほとんどの司教はフリー・メーソンだし、ヴァチカンのほとんどの聖職者もフリー・メーソンだし、そういうことになるよね?もし、出来たら、お願いだけど、ヴァチカンの聖職者たちの何パーセントがフリー・メーソンなのか。また世界の司教の何パーセントが、フリー・メーソンなの?司祭の何パーセントが、フリー・メーソンなの?そして、今、有効なミサ、つまり全実体変化させる意思を持って聖変化することで、ご聖体を本当にミサで作っている、全実体変化させている司祭は何パーセントなの?えっと、ペール・ブレが、1993年に司教にさそわれたんじゃなくて、ボクが、ペール・ブレの体験を聞いたのが、1993年だよ。いつからそんなふうに、ヴァチカンが、司教になる条件はフリー・メーソンになることっていうふうに、隠れて、そういうルールをつくったの?」

ペトロにーちゃん「わが息子の質問に答えていこうと思う。すべての事の始まりは、すでに、かなり前から計画されていて、自然にそのようになったように見せかけている。そして準備が整ったので、実際に動き始めたのが、信じられないと思うが、第二ヴァチカン公会議の頃には、かなり浸食され始めていた。そして動き始めた。確実に、そしてゆっくりと浸食されていった。どのような割合でということであるが、0(ゼロ)ではないということだけを言っておこう。そして、よほどオーソドックスのほうが、聖変化は有効に行われている。正しい人々を、地の果てに追いやって、仲間はずれにしているというのが、現状である。正しい人々を追い出しているので、気が付かないうちに、そうなってしまっている。上層部は、はっきりと認識をして、フリー・メーソンのかかわりを持った者たちである。除外されたものが、わずかであるが、信念を貫き通している人々が、今もいるので、0(ゼロ)とは言わなかった。正しい行いを続けると、必ず圧力が加えられて忠告を受ける。忠告を受け入れるはずはないので、初めから自分達の目の届かないところへ飛ばすことをする。大変な組織になってしまった。くり返して言っておくが、0(ゼロ)ではないと言うこと。フリー・メーソンに関わっているもの達の割合と、全実体変化の割合、それらを含めて0(ゼロ)ではないということを話しておく。ただ、ただ、なげかわしい現実であるということを言っておく。逆に考えると、私たちの先生が、地上に戻られる時が近づいているということにもなる。先生は、おおそうじをするために戻ってこられる。わが息子をはげますつもりで言う。多くの人々をせん動して、異端だと大声を上げてさわぐ人々には、自分達が異端だと言われないためにさわぐのであって、少数でも、沈黙を続ける人々が、最後には勝つということを言っておく。わが息子に、私は祝福を与える。父と、子と、聖霊とのみなによりて、アーメン。」

マリア・アントニア「今日は、気がすんだって・・。」

マリア・アントニア」「状況説明。ペトロにーちゃんが、昨日の続きを話してくれた。やっぱり今日も、恥を知れ!とか、今日もおこってるぞって思いながら聞いていた。よっぽど、今の司祭たちのことをなげいているみたいで、いろんな気持ちがあって、たくさん言いたいんだなって思った。ほかにまだ、言いたい事があるみたいなんだけど、今日はこのことを言っておきたいっていう感じだった。ほかにもいっぱいあるのだけれど、今回はこれで帰るねっていう感じだった。やっぱり子供の純粋な気持ちが大事だっていう事を言っていた。私に向かって話をしているんじゃなくて、ジャン・マリーに話をしているんだって思った。ロンジン・マリーとか、フランソワ・マリー、コルベ・マリーに、これから司祭になる予定の人たちに話をしていたんだって思った。今日も、聞いていて、ペトロにーちゃんは、イエズスのことが本当に大好きなんだって、尊敬しているんだなって感じた。イエズスのことで、間違ったことを話している人を見ると、頭にきてしまうみたいで、イエズスが忍耐強くてやさしいから、間違った事を言われたりすると、だまっていられない気持ちになるんだと思う。ヴィジョンは、子供がミサごっこをしているのが見えていた。テーブルにシーツをかぶせただけのものに、おせんべいとジュースをコップに入れて、香炉(こうろ)の代わりに、ひもをつけた鈴をガランガランやっているっていう、見たとおりに、覚えているようにやっているのが見えていた。かわいい小さい子が、同じようなまねをしているのを見てた。こまかいところはちがったりするけど、あこがれてまねをしているのが、かわいかった。あと、立派な祭服、小さいけど立派な祭服、背中に十字架のしるしがしてあるのものを着ていて、ちゃんと金のふちどりがしてあるものを着ていた。本人は、本当になりきってやっている。そして終わったあとには、残ったおせんべいを、大切に全部たべてしまっているところとかも見せられていた。それを見せられながら、ペトロにーちゃんの声が聞こえていた。あとは、イエズスが、子供達の頭をなでている光景も、その話をしてくれている時に見せられていた。あとは、ジャン・マリーが質問したことに答えてくれていた時に、中央に、ヴァチカンにみたててあるものがあって、塀(へい)の中に、高位聖職者たちがいて、塀の外には、果てのほうに、小さい建物があって、正しい人がつまみ出されるっていうものを見せられていた。ほかには、違う形式の建物があって、そこがオーソドックスのことを表しているんだと思うんだけど、そこの建物と小さい建物の方が光っていて、ヴァチカンにたとえている方が黒くなっていて、地図みたいなもので見せられている。そっちのほうが、よほど正しく全実体変化が行われているっていう意味のものを見せられていた。ジャン・マリーの知っている神父様とか、島流しにあった神父様のいるところが光っていて、かがやいているのを見せられていた。それを見せられながら、ペトロにーちゃんが話してくれてた。
posted by こるべまりい at 23:35| 秋田 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 秋田の聖母 第2出現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月28日

獣のフランシスコにけんかを売る公のメッセージ 2016年8月26日

2016年8月26日 PM10:10
ペトロにーちゃんのご出現

ペトロにーちゃん「ぺトロが、先生の代理者として、初代教皇として話をする。今日は、とても慈悲深い、やさしい先生が、皆のために、再び地上に戻られるまでの間、続けているようにと、教えてくださったもの、その中でも、先生ご自身が、へりくだられたものである、聖なるホスチア、ご聖体について、話をする。先生は、なぜ、ご聖体という形を取ったものを思案されて、自ら教えてくださったのか、それを思い出してほしい。ご自身が、自ら人々の口の中へ入られて、その人の心に留まることを望まれた。これほど、単純で、尊いものはない。これをただのパンと、言えるだろうか?そして、ただのパンならば、叙階をされた司祭が必要だろうか?先生が、わざわざこのように、最後の晩餐の時、使徒たちに伝えて残されたものを、どうしてただのパンと言えるのか。そしてミサで、叙階された司祭が、自分の聖別された手で、聖変化を行うのに、聖変化が行われた後も、ただの食事なのだろうか。司祭が、司祭のみ触れることの出来るものを用いて、聖変化をさせるのに、その後での聖体拝領は、司祭以外は、直接、口で受けるものであると、自然に思う事ではないだろうか。

 なぜ、一般信徒が、自分の手で、平気で受けられるのか。聖別されていない手で受けるということを、何とも思わないのか。これは、本当に何も知らずに、素直に、教えられたとおりに、素朴に従っている信者は別として、責任は、やはり高位聖職者にある。以前は、司祭の手から、直接、信徒の口へ拝領させていた。万が一、下に落ちても、パテナで受け止める体勢を取っていた。司祭の、聖別された手以外では、触れてはいけないものだからである。それが、いつしか、どういうわけか、信徒の手にのせることが許されてしまった。これも、ねじ曲げられたもののひとつである。ただのパンならば、そんな事をする必要があっただろうか?なぜ、ただのパンと言い切るのだろうか?そして、司祭は、自らミサ聖祭を、簡単なものにすり変えて、聖変化の全実体変化自体を信じないで、ただの再現だと言っている者が、ほとんどになってしまっている。司祭が信じていない事に、信者たちも信じるわけがない。ご聖体というものが、どれほど尊いものであるかを、一番、良く知っているのは、悪魔である。うわっつらだけの信徒よりも、悪魔崇拝者の方が、よほど真の価値を知っている。だからこそ、本当に尊いもので、すばらしいものであるからこそ、ご聖体は、顕示されていなければならない。そして、中央の祭壇の、一番真ん中に、置かれていなければいけない。イエズスご自身であることを忘れてはならない。イエズスのおん体そのものであって、ホスチアの中におられるという言い方は、間違っている。中におられるのではなくて、ご聖体そのものが、イエズスご自身であるという事を、あらためて断言しておく。思い出してほしい。だからこそ、必ず、拝領前には告解に行ってほしいのだが、今の腐敗しきっている教会では、すべてが、ゆがめられている。こんなに嘆かわしいことはない。あらゆる理由をつけて、叙階をされた司祭以外が、直接ご聖体を配るという事が、今はあたりまえのように行われている。わざわざミサで、司祭が聖変化をさせたホスチアを、なぜ、司祭以外の信者が手に触れることを、平気で出来るのだろうか。尊いものとは、もう思っていないから出来るのである。良いクリスチャンと言われる人々が、ご聖体を、もう口で受けることがなくなっている。口で受けることは、タブーとなっている。なぜ、口で受けることが、ひんしゅくを買ってしまうのか。手にのせられているご聖体を見ると、心が痛む。そして、目に見えないほどの小さなものを、何も気にしないでいられることも、なげかわしい。昔の話だと、片付けてしまうのは、良くない。私は、現代主義の今のありさまを見ていて、とても残念でならない。イエズスが、踏みにじられていることを、とても見てはいられない心情になる。先生は、イエズスは、ずっと耐えておられる。古い時代のことだと言う考え方は、おそろしい。何も知らずに、ねじ曲げられたものを教えられて、それを単純に信じている人は、まだ許されるが、真実を知っている高位聖職者に、私はとてもいきどおりをおぼえる。私の言い方で言わせてもらうと、ぶんなぐってやりたいと思っている。尊いものであるという事を薄れさせたのは、悪魔の計画である。価値を知っているから、薄れさせていく事を行った。悪魔の計略の大勝利である。

 ここで、つけ加えておかなければいけないことがある。近頃、話題になっている、女性の助祭についてのことを話しておく。女性を一度、助祭になる自由、権利を認めてしまうと、助祭だけではおさまらず、司祭にまでのし上がろうとする。そして、すべてが崩壊して、破滅してしまう。厳しい事を言うようだか、女性は、侍者にもなってはならない。基本的に、ミサ聖祭は、司祭が、一人だけで出来るものである。本当に特殊な事情がある場合に、許可を得て、初めて、聖体奉仕者等、侍者を務めることが出来るのである。女性は、周囲の人々の注目を浴びる事に一所懸命になり、神に祈るという事を、絶対におろそかにする。ましてや、ホスチアを配ることも許してはいけない。天の御父との祈りを通して会話をすることが、集中して行われなければいけない。現代の風潮がどうであろうとも、イエズスは男性のみにミサ聖祭を委ねられた。十二使徒に委ねられた。最後の晩餐の場に、女性がいただろうか。あれこれ理由をつけて、権限を、権利を主張しているけれども、女性に任せてはならない。イエズスは、罪人に対して柔和であるけれども、また人々も、お互いに柔和でなければいけないけれども、すべてのことに柔和であることは、間違っている。守りとおすべきものは、変えてはならない。本当に堕落した今の教会を、私はとても悲しんでいる。頑固だと反感を買っても、変えてはいけないことは、どんなことがあっても変えてはならない。家の主人が帰って来る前に、自分の家でもないところを、勝手に変えてしまってもいいのだろうか?女性たちには、聖母の涙がわかるだろうか。そして、高位聖職者の男たちに、イエズスの涙がわかるだろうか。私は、顔をまっかにして、怒りが爆発しそうである。そんな時でも、先生は、なだめてくださる。今一度、良い信者として生きている人々に言う。もう一度、ご聖体とは何であるかを、黙想してほしい。あらゆる矛盾が生じている。この現状に気が付いてほしい。このような悲惨な状態になってしまった責任は、やはり高位聖職者にある。私たちの先生は、イエズスは、聖体拝領をする人の、多くの人々の口へ入られる時、泣いておられる。正しく聖変化を、正しく行っていない司祭に対しても、悲しんでおられる。実際は、聖変化をしていない状態のホスチアを信じて受ける信者たちに、あわれみをそそがれる。こんなに残念なことはない。どうか、わが息子は、ここで行われているミサを、このまま続けてほしい。お願いをしなくても、続けてくれるとは思っている。そして、信じている事をつらぬいてほしい。教会で、度々、戦ってきたことを、私は良く知っている。ならずものの人々が集まった、ここの人達に、伝統的な教会の守らなければならないことを、こうして話すのは、ならずものでも、真実を理解することが出来るからである。現代主義が、どんなに間違っているかを、ここの人達は知っている。本当は、どのようにしなければいけないのかを知っている。これからも、信頼をし続けてほしい。これからも、忠実な、ならずものであるように。私の祝福として、わが息子の手を通して、箱舟の8人に、祝福をお願いをする。

ジャン・マリー司祭「全能なる天主にまします、父と、子と、聖霊との祝福。箱舟の8人のうえにくだり、つねにとどまらんことを。アーメン。」

ジャン・マリー司祭「えっと、ペトロにーちゃん、質問だよ。はっきりと答えてほしいんだけど、1980年か81年の時の出来事なんだけど、南山大学の文学部、神学科に、上智大学神学部の神学教授の司祭が教えに来たんだけど、それを、教室に行って聞いた時、全実体変化は、絶対にないと、生徒に教えていたけどね。全実体変化を信じない司祭が、否定する司祭が、聖変化させる意思がまったくなしに、つまり、ただボーッとしてる状態じゃなくて、本当にそういう信仰を持たない、そして全実体変化を否定する。そういう思想を持っているという意味だけど、そういう司祭が聖変化を行った時に、全実体変化をさせる意思がないのに、全実体変化はおこるの?どうして聞くかっていうと、もし、全実体変化させるっていう意思がなしに、聖変化の言葉をとなえるんだったらば、それは、ホワイトミサ、子供のミサごっこ、またはミサの練習とまったく同じだよね。だったら、その聖変化なんて、起こらないでしょ?もし、そうだったら、それを言い広めるつもりだけど、おしえてちょ!」

ペトロにーちゃん「わが息子の思っている事は、残念ながら事実である。聖霊の働きが、そこにはない。イエズスは、ただ子羊のように、だまって耐えておられるのが、現状である。うつわだけのものであって、中身がない水筒と同じである。わが息子は戦うであろうから、自由に発言をしてほしい。」

ジャン・マリー司祭「ありがとう。ペトロにーちゃん。」

ジャン・マリー司祭「ペトロにーちゃん、ボクがご受難のマリア・アントニアのために、悪魔の攻撃、内容は言わないけども、ある悪魔の攻撃を、ペトロにーちゃんもわかってると思うけど、攻撃をやめさせて、なくしてほしいんだけど、どうでしょうか?」

マリア・アントニア「『ご受難だ』って。」「意味はわかるだろ?って。」

ジャン・マリー司祭「担うべき十字架、超えるべきハードル、いつか、超えれば終わるっていうことでしょ?」

ペトロにーちゃん「大変だけれども、背負えない十字架ではない。」

ジャン・マリー司祭「ペトロにーちゃん、今日、どうしてホスチア焼きが全部失敗したの?」

ペトロにーちゃん「悪魔がおもしろくないからだ。私がこのような話をする事に対しても、せめてもの抵抗で失敗させた。被害はほとんどないので、私からするといい気味だと思う。」

ジャン・マリー司祭「状況説明できる?」

マリア・アントニア「今日のミサの中での、3回目のフルエクソシズムの間に、何気なく、ご聖ひつのほうを見ていたら、シスターの格好をした人のヴィジョンがあって、その人が、手で聖体拝領を受けているところを見た。気軽に、お菓子を食べているみたいな感じだった。そのあとに、聞こえてきた言葉があった。『聖なるホスチアについて、今の人々の取扱い方について黙想せよ』っていう、それだけが聞こえてきた。たぶんペトロにーちゃんだと思うんだけど。」

ジャン・マリー司祭「だぁれ?そして今日、ご出現がある?あるとしたら、何時?」
マリア・アントニア「夜の10時だって。誰って聞いたら、『わたしだ』って、ダミ声で、ペトロにーちゃんの声で聞こえてきた。おおやけのメッセージが、欲しいんでしょ?って。」

マリア・アントニア「あのねぇ、書き起こしをするまで、いつもほとんど覚えてないんだけど、ただ1つだけヴィジョンがあって、聖変化の時の聖別された聖具を使っているっていう時の意味について話をしてくれていた時に、ジャン・マリーが、ミサでていねいにやっている時の事を思い出させられたものがあった。あとは、ご聖体に対して、ものすごく扱いがひどくて、おこっている、なげいているっていうのが伝わってきた。きびしいことを言ってるなって感じた。」

ペトロにーちゃん「ペトロが話をする。初めに、マリア・アントニアに話しておく。あなたは、いつも、天からの働きかけがあるとき、そして、天の方が話をされる時、過去の悪魔からの攻撃の後遺症で、不安になってしまう。そして、このローキューションと幻視についても、いつも、自分ほどふさわしくないものはいないと思っている。しかし、私たちのイエズスは、だからこそ、あなたを導いてくださっている。先生は、私を選んでくださった時のように、やさしいまなざしを注がれている。そして、手を差しのべられている。先生ほど、ひどい目に会う人は、これから先もいないという事を話しておく。そして先生に従う人々は、同じように迫害を受ける。その報いは、後の世で、喜びに変わる。ワースト1であるあなたを、人がうらやむほど、愛しておられる。先生の選び方は、人々には理解をされない。とまどう事があっても、その人に合った恵みを注がれている。だから、信頼をし続けてほしい。恐れることはない。これからも、恐い時は、『恐い』と言い続けるように。最低最悪であるあなたしか、わからない。傷を負った人々に対しての福音を、告げ知らせてほしい。人々からは、今の状況のままでいい。ほめられてしまうと良くない。今まで同じように、これからも、わかってもらおうとしないでほしい。ののしられて、馬鹿にされ続けている事が、順調であるという事を言っておく。表向きだけは、良い人ではなくて、見た目も、内面も、最悪であるあなただからこそ、人々に聞き入れてもらえるところがある。あなたは、自分が、いわゆる信仰深い良い人間だからということを、今までも、思ったことすらない。これを、この先も続けてほしい。私と、本当によく似ているわが息子に、これからもついて行くように。」

posted by こるべまりい at 17:24| 秋田 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 秋田の聖母 第2出現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月15日

マリア・アントニアに与えられた天からのメッセージ 2016年8月13日

2016年8月13日 AM12:09
ペトロにーちゃんのご出現
ペトロにーちゃん「マリア・アントニアにペトロが話をする。恐れることはない。私たちの先生は、すべて、わかっておられる。一番、悪い霊魂であるからこそ、あなたがたを愛しておられる。そして、私も愛している。私は近い将来のことを悲しんで、一人で嘆いていた時も、先生は、やさしく、的確にお話をされた。今、あなたが置かれている状況について、時に、心の・・。霊魂の叫びについては、私もよくわかっている。先生のことを、恐れなくともよい。決して、傷ついた人々を、強い言葉でつきはなすような事はない。私も、先生が柔和であったので、どれほど助けられ、どれほど強められたことか。私が、三度、否んだことがあって、それでもイエズスは、全て知っておられて、許す事だけを考えておられた。全てをご存知である、まことの神であるからこそ、出来る御業(みわざ)である。だから心配することはない。自信を持てなくてもよい。自信を持たない方がむしろよい。その人に合った方法で、神は語りかけられる。私を呼んでくださった事も、本当に御摂理(みせつり)である。私のように、怖い時は、素直に助けを願いなさい。私も願っている。これからも、私と共に歩んで行こう。イエズスは、本当に、神の御子(おんこ)である。あの方ほど、やさしい方はいない。誘惑に負ける弱い霊魂を、特に愛されて、許したいと考えておられる。不安になってもいい。しかし、必要以上に心配をするところは、よくない。私は、あなたの繊細なところをよく知っている。そして、隠そうとするところもわかっている。私を愛してくれていることも知っている。私は、あなたの事を良く分かっていない人が、あなたにするようなことはしない。もう一度、あなたは、私と常にいる事を伝えておく。そして、2人きりではないということも話しておく。マリア・アントニアを、今でも愛している。これからも、わが息子を信頼し続けて、従って行くように。そして、私も共にいる事を、信じていくように。信じ続けていくように。迫害がますます激しくなってくるけれども、私の船は、天の御父が、先生と共に、聖霊と共におられるので、小さい船だけれども、大船に乗ったつもりで、従ってほしい。これは、ユーモアなのだが、わかってもらえたか?そして、あなたが、一番大好きな聖母とも、話を続けるように。始めに言った言葉を、ここで、もう一度、話す。恐れなくともよい。私と同じように、「滅びそうです。助けてください。」と、助けを願いなさい。たくさんの困難が続いているのを、私も共に経験している。怖がらないで、信頼し続けてほしい。司祭の祝福を、箱舟の8人にお願いする。」

ジャン・マリー司祭「全能なる天主にまします。父と、子と、聖霊との祝福。箱舟の8人のうえにくだり、つねにとどまらんことを。アーメン。」

クララねーちゃんのご出現
クララねーちゃん「クララ・ヨゼファ・メネンデスに、お話します。おねだりのとおりに、クララがお話します。私と同じ名前で、かわいく「クララ」と呼んでいるあなたは、とても頑張っています。私が、聖フランシスコに、同じ精神で従ったように、あなたもジャン・マリー司祭を、慕い続けて、ついて来てくれています。とてもストレートな信じ方で、とても私とよく似ています。様々な部分で、人から誤解を受ける時があると思います。それでも表面的には、笑っています。聖ヨゼフと共に、私もそばにいます。数々の困難や悩みも打ち明けているのを、私も知っています。たくさん泣いてきたこと、そして戦ってきたことも、よく知っています。これからも、忠実に従っていきます。あなたは、曲がった事が、大嫌いです。ただ純粋に、信じ続けてきました。これからも、変わることはないでしょう。素朴で、あり続けてください。いつも、ご聖体のイエズスにお話をしていることを、これからも、やめないでください。あなたは、とても可愛い性格の人です。信じ続けて、歩み続けてください。あなたが将来、受ける報いは、大きなものになります。あなたは、自分が信じたものを、信じ抜く事が出来る人です。どうか、これからも、怒ったり、泣いたり、笑ったりすることを、続けてください。つらい事が続くと思いますが、必ず、変化が訪れます。これからも、人々に、愛を振りまいてください。あなたのことが、私も、とてもかわいいです。これからも、ジャン・マリー司祭を支えてあげてください。私も、あなたがたのお願いを取り次いでいます。司祭の祝福を、クララ・ヨゼファ・メネンデスにお願いします。」

ジャン・マリー司祭「全能なる天主にまします。父と、子と、聖霊との祝福。クララ・ヨゼファ・メネンデスのうえにくだり、つねにとどまらんことを。アーメン。」

状況説明:ペトロにーちゃんは、今日は、俺がなぐさめてやるっていう感じだった。心配するな」っていう感じだった。あと、クララねーちゃんは、とっても気高くなくて、お高くとまってないっていう、かわいい人。話し方が、嫌みったらしくない。信じる事をやめなかった強い人だったんだあって感じた。お友達みたいに、クララに話している感じだった。あとは、誰にも指図されずに自分で決めたことは、ちゃんと、そうするところが、クララねーちゃんと、クララは似ているんじゃないかって、聞いていて思った。クララねーちゃんの声は、女性らしい声、高めの声で、小鳥が鳴くような声だった。ほとんど、今日は声だけだった。
posted by こるべまりい at 23:00| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 秋田の聖母 第2出現 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする